街中で子供に選ぶ権利を与えず子供がぐずついて
親子喧嘩になっている光景を見たことは無いだろうか?
よく聞いていると子供のほうがすじが通っていて
親側は自分の思い通りに動いてくれない子供に
イライラして服従させるために怒りをぶつけていることも少なくない
完全にお母さんが間違っている。
なんて見知らぬ私が言うのも
火に油を注いでしまうので口は出さないが…
ではなぜこんなことが起きてしまうのか
それは子供がちいさくても『考えたい生き物』である
大きくなるまで考えられないのだから私が決めるのだ
という認識から起こっていると考えている。
では、そういった環境で育った子が高学年、中学生になって
自分で考えて行動するだろうか?
答えは否である。
日々、すべてのことを先に決められている生活を繰り返しているうちに
子供はどんどん自分の考えに自信を持てなくなってしまう
学習の時間、プリントやワークシート
試験問題などの時だけ考えようとしたって
そうはいかない。
すべてを他人に頼るようになるのだ。
それではいけないとわかっている
子供に怒鳴りつけるのではなく
話し合わなければいけない
しかしなぜそれが出来ないのか
これは大人の価値観と子供の価値観が
経験の差によって違うことが原因
この差によって良かれと思い大人が速く動き出し
環境の準備をしてしまう
これが子供の眼には何でもかんでも勝手に決めう大人に映り
従おうという気持ちが薄れてしまう
これは学校でも塾でも同じ
担任の先生がいつも説明調なクラスでは
生徒は自分たちで決められないストレスをためている
次第に覇気がないクラスになってしまう
多くの講師や担任はそれが自分のせいであることには気づかない
子供のせいではないのだ
この悪循環はもしかしたら職場でも同じだろう。
親が良かれと思い事前準備や前もって考えていた時
子供は勝手に決めてしまうなんてと
素直に従えなくなってしまう
本屋さんでも親が読ませたい本と
子供が読みたい本で乖離が起き喧嘩になる
子どもの価値観が親に近づくのを待ってみたらどうだろう
いやそもそも高度な本や問題集に焦って出会わせなくても
考える子に育つ環境づくりはもっと身近なところにちゃんとある
日々の生活の中で靴を丁寧にそろえて履かせてはいないだろうか?
たまにはいじわるして、とってもいい天気なのに長靴を置いてみよう
我が子がどのように動くか少し離れて観察してみると面白い
もしも、何も疑わず長靴をはいて天気のいい日にでかけていったとしたら
少し我が子への接し方を見つめなおした方がいいかもしれない
これではどんなにペーパーテストでいい点がとれる子だったとしても生きる力としては課題が残る。
「お母さん、どうして長靴なの」と尋ねたり
玄関のドアをあけて、「これだと暑いんじゃないの」
なんて返答が来れば考える力が身についていると言えるだろう。
あえて食器の数を少なく出してみたり
日常に少しの不具合を与えることで
子供にとっては刺激になり
考える力を育てる絶好の機会になったりする
しかし、親が子供に任せてイライラしないレベルのことから始めるのを忘れずにね
きっかけはいくらでもある
会話の中でどうして?を増やしてみたり
家族に時間としてトランプやオセロなどをしたり
子供のバランスは親のバランス力ともいえるだろう