やりたくないことはやらなくても良い
世界はここだけじゃないから逃げても良い
そんな言葉があふれている今日
どうも、そんな言葉が正しく使われていないのではないかと感じる
確かにやりたくないことはやらなくても良いし
会社や学校が合わないなら逃げたらいい
でも人は生きなければならない
生きるために働いたり稼いだりする必要がある
やらなくていいとか、逃げてもいいっていうのは
環境を変えても良いってことで
やらなくてはならないことは変わらない。
やらなくてはいけない時にやらない自分、やりたくないと思う自分に早く気付いてほしい。
大人なら分かるよね
人は常にそういうもんだし
そういう自分を律しながら
やるやらないを選択している
結局、他人と自分との差はその差でしかなくて
やりたくない自分に負けるのも
それも自分という人間だからだ
大人は自由だから
やるやらないの責任は
自分で取る
自由とは自分の行動の責任の所在が自分にあることだからだ
つまり子供の勉強をやるやらないは自由だ
親は責任取れないからね
甘やかしてニートとか引きこもりになったら
親が責任を取るから自由じゃないかもしれないね
それは各ご家庭で考えてみて
そーやって今日も明日も明後日も
やらない楽な道を選択したら
どうなるかは分かるよね
君がやらない選択をし続けている間に
やるという選択をし続けている子がいる
やりたくないなぁ、でもやるかぁ!!
と頑張って、今日明日明後日と
毎日毎日やるものがいる。
これが「差」の正体
才能というスタートラインの違いや伸び幅の違いはあるよ
でも才能があってもやらない奴はやらない
才能がなくてもコツコツ努力できる子は
必ず上位にいる
分かるよね?
僕だって同じだ
朝は置きたくないし
まだ眠っていたい
でも起きる。
掃除も洗濯も家事なんて何一つやりたくないけどやってる
勉強はやりたくなかった
けどやった
今は、やった後の自分を知っているから
やりたくない自分は少ないけど
それでも、あまり好きではない英語や社会の勉強は
やりたくない自分の存在がでかい。
でもね、やりたくない自分をねじ伏せていく日々を送ると
やった後の自分が分かるんだ
やった後、悪くないじゃんって思えるとね
やった後の自分の存在が大きくなって
やりたくない自分の存在が薄れていく。
そうするとやることやるかーって感覚になってっきて
やるかやらないかじゃなくで
どうやるか、いつやるか、誰とやるか
って思考になってくるんだ。
これが習慣ってやつで
学習は
学ぶ習慣でしかないんだ
強制でもなんでも
まずやっちゃいなよ
まだやりたくないのは
やってる時間や量が足りないだけだよ。